おはようございます、山北です。

突然ですが、皆さんがドラムという楽器を選んだ理由はなんですか?

生徒さんに時々させていただく質問なんですが、ふと「僕自身はどうだっけ?」と思ったのでちょっと書いてみます。たぶん長文になると思います。

きっかけは「モテたいから」

僕は15歳からドラムを叩いていて、いま43歳。人生の半分以上をドラマーとして生きてきたわけですが、ドラムを叩く理由というのはその時々で変化してきました。

最初の動機は「モテたいから」という、人類共通の健全な理由。中学高校が男子校だった僕としては近所の女子校の子とバンドが組めるかもしれないビッグチャンスで、それを実現するために頑張って練習に明け暮れたわけです。

その念願は叶い、学校の垣根を超えた100人規模のイベントを成功させたり、関西学院大学の学園祭に背伸びして混ぜてもらったりと、高校時代の音楽活動は非常に充実していました。音楽を通じて友達が増えるのが楽しくて、ますますドラムの腕を磨くというサイクルが出来上がっていました。

ちなみに、この頃はまだ独学です。YouTubeなどまだ存在せず、情報源はVHSの「手数王」と「ドラムマガジン」。レンタルCD屋さんで定期的にCDを借り、カセットテープにダビングしては回転数を落として耳コピする日々でした。

今からは想像もつかないほど不便な時代でしたが、そのぶん一曲一曲を聴く時の集中力は凄まじいものがあったと思います。

将来の夢としてのドラム

高校卒業は1995年。この年に阪神大震災が起こり、学校のある通い慣れた神戸の街並みが壊れました。自分が暮らしていた場所のすぐ近くで5,000人以上が亡くなった事実をどう受け止めればいいかわからず、焦りました。無性に将来が不安になったのです。

僕は、自分の不安の正体が何なのかわかりませんでした。このまま順当に進学すれば将来は安泰なはずなのに、何が不安なのか・・・?

神戸行きの鉄道が止まり、大阪の自宅で1ヶ月待機している間、僕は不安の正体について考えました。そこで出た答えは、こうでした。

「進学も就職も、本当にやりたいことじゃない。学歴はいらん。俺はドラムで食べていきたい。」僕の不安の正体は、お金や安定のために「チャレンジする機会を失うこと」への不安だったのです。もう、この答えが揺らぐことはありませんでした。

親とはたくさん話をしました。ドラマーを目指すのは良いとして、今すぐ高卒でフリーターになるか、大学に進学するか。親からの条件は、フリーターになるなら家を出ること、進学するなら国立か名前の通った私立に行くこと。

問題は、お金でした。ドラマー以前に、まずは自分が食っていかないといけない現実があるわけです。音楽学校に行きたかったけれど、ドラムを学ぶのに投資したからといって、それで稼げるようになるかはわからない。周りにも、音楽で稼いでいる人は一人もいない。稼げるイメージは、ない・・・。

今だったらネットビジネスを真剣に勉強したと思いますが、当時はそういう選択肢もありません。

「お金のことは、大学に入ってから考えよう。」

頭の中で数百万円単位のお金の計算をした結果、僕は親に頼ることを決め、国立大学を受験することにしました。

自己実現のためのドラム

高校ではバンド活動に明け暮れていたので、成績は全校で下から5番目でした。いくら進学校でも国立はさすがに厳しく、現役は京都大学を受験して不合格。一浪して東京大学を受験、これも失敗。すべり止めで慶応大学の経済学部に入りました。

行きたくないのに入ってしまった学校というのは、周囲の友人との温度差が辛いものです。ほとんどの友人は慶応が第一志望で入ってきたか、付属の高校から上がってきた人たちです。中には幼稚舎から慶応という人もいて、一人で「サバイバル臭」を漂わせている僕は・・・浮いていたと思います(笑)。

とはいえ慶応には音楽サークルがたくさんあり、音楽をするには良い環境だったのはラッキーでした。同期にはプロとして現在も第一線で活躍している友人も多く、彼らに出会えたのは大きな財産です。

大学時代、ドラムは僕にとって「自己実現のための手段」でした。プロになるという夢に向かって「誰よりも上手くなる」ことを目標に毎日練習に励みました。

ここで僕は大きな間違いをしています。それは音楽活動を「競争」と捉えてしまったことです。とにかく「誰よりも上手くなること」「一番になること」を目標に沢山練習しましたが、仕事につながる流れにはなかなかなりませんでした。

プロになるためには楽典や作曲についても知っていなければならないと考え、塾講師や家庭教師のアルバイトで稼いだお金でDTMの機材を買い、6畳一間のアパートで作曲を始めました。ライブの機会が減ってドラムからも遠ざかり、何がしたいのか一時期わからない状態に。

知識や技術よりも「好かれる人になる」ことを考えていたら、もう少し上手くいっていたかもしれないのですが・・・。

食うためのドラム

それでもチャンスはやってきました。ボーカリストとして活動していた現在の妻と知り合い、そこから人脈が広がっていったのです。とある声優さんのライブサポートの仕事を皮切りに、徐々に仕事をもらえるようになっていきました。

この頃は、ドラムは生活の基盤。腕を磨くことが生活に直結するので、一層頑張って練習に励みました。水野オサミ先生に師事したのもこの頃です。

とはいえ経済的にはドラム一本では成り立たず、プログラミングを独学して請負い仕事をしたり、契約社員として小さなIT企業にお世話になったりもしていました。自由な働き方を認めてくれた役員の方々には今でも感謝しています。

サポート仕事を重ねるうちに、自分の奏法が根本的に違うんじゃないかという疑問が出てきました。山木秀夫さんのようなドラムを目標にしていたのですが、音色もダイナミクスも全然近づくことができなかったんです。メトロノームに合わせるのは得意なのに、現場ではノリが合わない「グルーヴ問題」も悩みでした。

やり方を根本から見直さなければ先はない。そう感じた僕はK’s musicの門を叩き、ゼロから奏法を変えることにしました。

身体を良くするためのドラム

K’sで脱力を習うことで、僕は生まれてはじめて「自分の身体に目を向ける」ということをするようになりました。

この頃の僕は上手くいかない演奏の仕事にストレスを感じており、ドラムを叩かない時でも首や肩に痛みがあったり、腕に蕁麻疹が出たりしていました。ところが・・・脱力を習い、身体の力が抜けるにつれて、そうした不調が徐々に改善してきたのです。

実はこの体験が、人生が変わる最大の転機になりました。ドラムで食う、仕事を取るために脱力やモーラー奏法を習いはじめたはずが、ボディワークのほうが面白くなってきてしまったのです。

29歳〜31歳の3年間、ドラムは僕にとって「身体を良くするためのツール」に変化していきました。整体やボディワークへの興味がどんどん大きくなり、「演奏で食べていきたい」という気持ちは徐々に薄れていきました。

そして僕は、演奏活動をやめることにしました。

人を助けるためのドラム

ところがその時、K’sから驚きのオファーが。「モーラー奏法普及プロジェクト」のメンバーとして講師にならないかというのです。

自分の経験が人の役に立つかもしれないなんて、それまでは考えたこともありませんでした。断る理由はありません。1年ほどの準備を経て、僕は晴れて講師になりました。

どうやら、僕にはこの仕事が合っていたみたいです。生徒が変化していく様子に立ち会うのはとても楽しく、自分の経験が人の役に立っているという実感が得られることに大きなやりがいを感じます。

演奏がメインだった頃は、サポートとして呼ばれていても「自分を表現するために」やっていました。自分がどう評価されるかを気にし続ける、人の目を気にする意識が先に立ってしまい、相手をサポートするという意識になかなかなれませんでした。

僕が演奏家としてはあまり上手くいかなかった理由はこれだと、今ならわかります。「自分を呼んでくれた人を手伝う」という意識に100%なれていたら、もっと仕事が出来ていたはず。

僕は講師になることで、それを学びました。レッスンも教材づくりもYouTubeの発信も、誰かの助けになっていると実感できるのが本当に有り難いです。

現在の「Whyドラム」

講師の仕事の本質は「今まで知らなかったことを伝える」ことです。生徒の悩みを解決するために、新しい知識や技術を伝えるわけです。

この「伝える」というのがとても難しい。なぜなら、僕と生徒は考え方も価値観も違うからです。たとえば「力を抜いて」とアドバイスしたとしても「力を抜く」の意味が人それぞれ違う。一人として同じ結果にはなりません。

ここで大切になるのが「相手との違いを認める」ということ。自分と相手は、違うんです。

先生という立場の人は、生徒に対して「自分と同じになること」を強制してしまう場合があります。これはいけません。違いを認めて、違う中でも求める結果にたどり着けるようにガイドするのが先生の仕事です。

「伝える」とは、コミュニケーションそのものです。僕はドラムを通して、コミュニケーションの訓練をさせていただいています。相手と自分の違いを認め、相手の考えを認める。一方で自分の考えも明確にして、言葉や実演で伝える。そんなことを日々積み重ねています。

飛躍かもしれませんが、「上手くなる」という一つの目的に向かって協力して進んだ先に「世界平和」があると本気で思っています。

以上、僕がドラムを叩く理由についてお話しさせていただきました。ご清聴ありがとうございましたm(_ _)m