好きなことだけやる

好きなことを仕事にしている。幸せなことだ。

しかし、そこには罠がある。

仕事としてみた場合、好きなことだけしていると、短期的には進みが遅かったり、規模が大きくならないような感覚に陥る時がある。

そんな時に限って、こちらのほうがウケるかもしれない、儲かるかもしれないという誘惑がやってくる。

ここで自分の「好き」から外れると、とたんにエネルギーが落ちる。ブレてはいけないのだが、、

今もまた、誘惑が来ている。

本当に好きなことと融合するまで、ひとつ次元が上がるまで、ごちゃ混ぜのまま過ごしてみようと思う。

少し踏ん張りどころだ。

「関係性」が人を癒す

5日間の出張だった。兵庫でアロマの仕事のあと、大阪で確定申告を仕上げ、米子へ。

米子ではホテルのラウンジ、保険屋さん、美容室、放課後等デイサービス事業所など、たくさんの場所で話をさせてもらった。最後のデイサービスではドラムの講座もし、発達障がいと言われている子供たちと遊んだ。

アロマにしてもドラムにしても、人と関係を築くツールだ。

生のドラムの音を聴くだけで元気が出る、アロマの香りを嗅ぐだけで元気が出る。それは音や香りそのものが身体に作用することももちろんあるが、それだけが理由ではない。

聴くという体験をしている自分が確かにここにいると感じること。そんな自分とともにいる「人」がいること。そういう確かな感覚が、安心を生み、自分への信頼を生み、身体を変えていくのだと思う。

自分の居場所が明確であること。やりたいことが明確であること。自分の存在を確かに感じられることで、人ははじめて健康でいられるのではないか。

いくら栄養素を整えようと、睡眠をたっぷり取ろうと、適度な運動をしようと、孤独であっては元気が出るはずもない。

そういえば、義理の父は「長生きの秘訣は生き甲斐」とたびたび語る。それも納得だ。

メソッド

自分が教えていることをメソッドとしてまとめようと思う。

例えばスティックを振るという1つの動き。これを分解するだけでも、指、手首、肘、肩関節、肩甲骨、さらにはそれを支える背骨であり、骨盤であり、足の動きも関係する。

それに加えて、各部位の動きの特徴が何種類かずつある。

組み合わせは無限ではないが数十種類はあり、人によって得意な動きとそうでない動きが存在する。その辺のタイプ分けを3種類から4種類ぐらいに集約し、このタイプの人にはこういうエクササイズを、という方法論が、実は既にできあがっている。

まだ言語化できていないが、言語化すれば、デュプリケート(複製)が可能になる。

僕にしか教えられないメソッドと言うのも悪くないが、僕でなくても教えられるメソッドの方が、ドラム教育業界の全体にとっては価値があるのではないかと思う。

もちろん、どこまでいっても僕にしか伝えられない事はある。それは僕が人生をかけてやっていることだから、僕と言う人間が言うことで初めて意味を持つ類のこともあるからだ。

それはそれとして、とにかく技術を要素に分解して、デュプリケートできる状態にしたい。

その人の身体がなぜそうなっているのかは、1万人いれば1万通りの理由があり、なぜその人がドラムを演奏するのか?と言う問いとワンセットだ。だから一筋縄にはいかないのはわかっている。

しかし、現象レベルでの体の動きは、分析が可能だ。

だから、できるはずだ。

米子にて

昨日は鳥取県米子市のミュージックスクール、soundreamにてワークショップをさせて頂いた。

主宰の西浦さんがfacebookで僕にメッセージを送ってくれたことをきっかけに、去年の4月から始まったワークショップ。もう5回目になるだろうか。アロマの仕事で米子との関わりが出来たことも手伝い、頻繁に通わせてもらっている。

メンバーは20代がほとんどで、全員がマルチに楽器やダンスをこなす。今回は打楽器の技術的なこともさることながら、来週に控えた本番に向けての総合的なアドバイス。立ち方、視線の扱い方、意識の方向性など、「見られている」ということを前提にステージに立つことについても言わせてもらった。

終了後、有志で飲み会。

「何を」や「どうやって」は「技術」として伝えられるが、「なぜ」は伝えられない。技術を習得したいという欲求、もっと言えば音楽をやる動機、人前に立つ理由。そういうのはその人自身のものであって、人から押し付けられるものではない。

自分の中から湧き上がる気持ちは、本来は言葉に出来ない、言葉にした時点で意味は限定されてしまう。しかし、だからこそ、自分の気持ちや考えを言葉にして残す訓練が大切だ。ブログやったほうがええよ。

大笑いの合間、そんな真面目な話も交えながら午前0時を過ぎた。

「もう何年も教わっている気がしますけど、まだ一年なんですね」

それだけ皆の意識が変わり、時間の濃さが変化している証拠かもしれない。西浦さん、メンバーのみんな、ありがとうございました。

慣れというのは恐ろしい

情報発信の仕方を変えてみた。

ドラムはドラム、個人的な事は個人的なことと、書く場所を完全に分けることにした。こちらのブログは、もちろん個人的なこと。ドラムと関係ないことも書く。

大阪芸大出身の若い生徒と話していたのだが、モーラー奏法は彼の周囲では全く広まっていないと言う。僕自身はこの10年でずいぶん広まったと感じていたので、認識にかなりのギャップがある。

もう1人、高校を出たばかりの若い生徒は、僕の発信は難しいのでなかなかレッスンに行こうとする勇気が出なかったと打ち明けてくれた。

慣れというのは恐ろしい。僕にとってはもはや普通のことであっても、何も知らない人から見たら普通ではないということだ。このギャップには、本当に気をつけないといけない。

もちろん、何でもかんでも懇切丁寧に説明することがいつも良いとも思わないが、少なくとも、僕が伝えようとしている世界の入り口に立ってもらう事ができなければ、こちら側の世界だけでいくら発展させても意味がない。

とにかく知ってもらわないと始まらない、入り口に立ってもらわないと始まらないということを痛感する。

そんなことを踏まえての、情報発信の方向転換だ。必要な人のところに情報が届きますように。

長距離移動

今日から大阪。ドラムレッスンとアロマの仕事、そして整体施術の数日だ。

誰が言ったか知らないが、長距離移動は脳を活性化させるらしい。実感として、本当だと思う。物理的に身体が移動することで、確実に視点が変わる。

ドラムレッスンを再開してから東京と大阪の往復を繰り返しているが、やはりモードの切り替えが起こりアイデアも湧いてくる。

今日は手のリズムに対しての足のタイミングを整える方法について、一つ良いアプローチが出来た。足を使わずに両手の2wayで歌い方を確認し、それを足に置き換えるというものだ。こうした閃きは一人で考えていても決して出てこない、コミュニケーションの中でしか生まれない財産だ。

刺激に反応することで、初めて自分の枠をはみ出すことが出来る。

答えが出ない状態に慣れろ

「なぜこの仕事を選んだのですか?」と聞かれた時、きれいに説明できなければいけないという、ある種の強迫観念があった。
これは「問題には必ず答えがあるものだ」というステレオタイプの発想から来ていると思う。

答えなど言えるわけがないし、言えたらその時点で嘘だ。
そういう種類の問いもあるということだ。

と書いてみて気づいた。

なぜこの仕事を?という問いは、
「なぜ生きているのですか?」
という問いに限りなく近いのだ。

それこそ古今東西の哲学者が一生かけて考えている問いである。
答えなんか出るわけがないし、出す必要もない。

僕は僕にできることをやるだけだ。

先日娘と観に行った映画の中に「限りがある力だから頑張れるんだ」「限りある命だから素晴らしいんだ」という台詞があった。まさにそれだ。

全体を捉えたところで、今ここで自分が行動しなければ何も起こらない。
そんな視点も大切なのだ。

なぜこの仕事を?

何かをする動機になる欲求とは、結局のところ「自分をわかってほしい」というものなのかもしれない。と同時に、「人をわかりたい」という欲求もある。

それは「安心したい」という欲求でもあるのかもしれない。

でも、人はそれぞれに違うからわからない。

だから、関わりを持とうとする。

人と関わりを持つことで、人は生かされている。
こう書くと実に月並みな言葉に思えるが、やはり本質はそこだろう。

だから、仕事は何でも良い。人と関わる入り口は何でも良い。

そこで、仕事だ。
僕は「なぜ」この仕事を選んでいるのか?

それはわからない。
それこそ人との関わりの中で、相対的なバランスの中で自然に決まったものだからだ。
割り当てられた、という感覚だ。

でも、それは本当なのだろうか?

僕にはこれしかなかったから、他の選択肢は想像がつかない。

考えて選んだ仕事ではないので、説明がつかない。
それこそが、欲求に従った結果なのかもしれない。

「何を」より「なぜ」が大切

昨日はアロマ、PTA、ドラムレッスンという3つのコミュニティで朝、昼、夜と仕事をした。3つとも見事に違って面白い。

アロマは、既成の商品を売る仕事。相手が何を必要としているのかを会話の中で知り、解決策として商品を紹介する。自分がなぜその商品を選んだのかを伝える。響いた人が買っていく。

PTAは仕事だが、そもそも商売ではない。たまたま同じ学校ということで居合わせた人たちの集まりなので、学校という組織が機能するように、歯車の一つになり切ることが求められる場面も多い。僕でなければ出来ない仕事だとはなかなか思えないが、縁があって僕が選ばれたということは、何か理由があるのだろうと納得している。
実際、とても勉強になっている。今までの自分の生活の延長線上では会話をすることのなかった「学校」の人たち、ある意味で僕が一番避けて通って来た人たちだからだ。

ドラムレッスンは、自分のアイデアを売る仕事だ。
とはいえ、アイデアの源泉は既成の技術であったり、先人の発想だ。自分のフィルターを通して再構築したものを表現しているだけだ。
その証拠に、どんなに高度な技術であっても、要素に分解して一つ一つ丁寧に取り組めば、必ず自分のものに出来る。そんな方法論を伝えるのが面白いし、生徒も楽しんでくれている。

こんなふうに、違う分野の共通点を探そうとする思考が僕のクセだ。抽象化して一つの原則が見えた時の快感が好きなのだ。

共通するのは、何をやるか?ではなく、なぜやるか?が大切だということだ。
そして、根底には言語化できない、何らかの欲求があるということだ。

去年から小学校のPTA会長をしている。
「柄にもなく」とはこのことだ。

小学校は塾通いで休みまくり、中学、高校も授業をサボっては繁華街に繰り出したりティッシュ配りのバイトをしたりしていた、模範とは程遠い僕が・・・である。
特に高校の時などは、授業に出ても着いていけなかったのでとにかく寝て(灘高の授業は高度過ぎた・・・)、養った英気を全てドラムにあてていた。

それはさておき、とにかく引き受けてしまったのだから仕方がない。行事があれば出席するし、先生方や保護者の前で挨拶もする。さすがに一年やると少しずつ慣れてきた。慣れの力はすごい。

先日は六年生を送る祝賀会だった。まず校長先生がお祝いの言葉を述べられ、次に僕。うちの小学校は私立受験の人数が都内でも特に多く、親御さんもおそらく高学歴の方が多い。そんな中で、僕ごときドロップアウト組みが何をか言わんや・・・である。

児童は本当に優秀だ。挨拶もきちんとできるし、大人顔負けのスピーチをする子もざらにいる。さあ、なんと言ってやろうか・・・と考えた結果、「言葉の力」の話をした。

言葉といっても、漢字や諺をたくさん覚えてください、という類の話ではない。「自分の気持ちを言葉にできる人になってください」という主旨だ。

勉強ができる子は、もちろん言葉も良く知っている。だからこそ陥りやすいのが、大人が喜ぶ言葉を使いすぎてしまうという状況だ。借りてきた言葉を使うほうが大人の評価が得られ、自分の言葉を発した時には評価が得られない。そんな子供が多いのではないかと感じているのだ。だからそんな話題にした。

自分の気持ちを言葉にする力は、大人にとっても大切だ。もちろん言ってはいけない場面、言わない方が表面的には世渡り上手になれる場面もあるだろう。しかし長い目で見ると、本当の気持ちを隠せば隠すほど、自分が苦しくなっていく。

小学六年生は、これから人生の選択をしていくべき年齢にさしかかる。自分の言葉で話す力を養うことは、そのまま自分の人生を生きることにつながると信じる。